令和2年度 国立研究開発法人 日本医療研究開発機構 (AMED) ウイルス等感染症対策技術開発事業
感染症危機管理における位置情報活用に向けた基盤的技術の開発
~パンデミック対策の急所を塞ぐために~

感染症対策と公衆衛生行政

2020年に生じた新型コロナウイルスによるパンデミックでは、感染症への備えが近代社会にとっていかに重要であったかが明らかとなりました。

例えば、マスクなどの防護具は、各自治体が進めてきた備蓄の正しさが証明されたと言っても良いでしょう。いくつかの地域では、病院内での大規模な集団感染(クラスター)が発生したことで外来や手術が停止し、地域に複数の病院があることが感染症への備えに繋がることが示されました。感染者を効率的に見つけ出すうえで、どのように検査をすべきかには議論の余地があるものの、緊急時にそれなりの数の検査を可能とする体制の必要性自体も論を待たないでしょう。それぞれの感染症に特に効くワクチンや治療薬の研究も欠かせません。

一方で、今回の危機において、感染者の発生を推し留めるうえで保健所が果たしてきた重要な役割は、ほとんど意識されてきませんでした。新型コロナウイルス感染症による死者を押さえているのは、患者を受け入れ治療をして下さっている各地の医療機関と医療従事者です。しかし、その「患者の発生」を各地における医療の供給限度内に抑え込み、感染拡大を踏み留まらせるのは、患者との接触者を洗い出し感染を封じ込めていく保健所です。現在まで感染拡大を効率的に抑え込んでいるアジアやオセアニアの諸国でも、保健所の接触者追跡が大きな役割を果たしていることが報じられています。

パンデミックにおいては、患者数はやがて増大を止めることの出来ない局面へと移行します。しかし、全国の保健所では、そうした事態を避けるため、陽性者を見つけては隔離の手配を行うと共に濃厚接触者を探し出し、さらなる検査と隔離の手配をします。この防衛線が突破されれば、医療機関が治療に当たれる患者を超えた数の患者が発生し、また、重症化した患者の手当が出来ず、欧米で生じているように死者の連鎖的な増加が生じることになるでしょう。それを押し留めるための先行きの見えない長い戦いに、全国の保健所では、朝から深夜まで保健師の方々が献身的に取り組んでおられます。これが、普段意識されることのない、感染症対策における公衆衛生行政の重要な機能です。

パンデミック対策のボトルネック

感染症危機管理における位置情報活用に向けた基盤的技術の開発 従来手法
保健所に代表される公衆衛生行政は、病院や一般的な役所と異なり、母子保健(母子健康手帳)を除けば一般の方が日常生活で接点が生じることはほとんどないでしょう。公衆衛生行政は、食中毒防止のための食品衛生や、公害対策に代表される環境衛生など、住民の健康を裏方として支える組織です。

新型コロナウイルス対策では、この公衆衛生行政とその最前線である保健所が、大変な危機に陥りました。社会的な関心が必ずしも高いとは言えない政策分野であることから、組織は縮小され続け、それでも効率的・効果的な組織を実現するための情報化すらも後回しとされてきた分野でした。そのため、新型コロナウイルスによるパンデミックが生じた後も、その患者の管理、接触者の洗い出しと検査手配といったあらゆる業務が手作業に留まっており、増大する患者数に対して、職員の終わりの見えない残業と平日休日を問わない過酷な勤務が求められたのです。

今回のパンデミック対応における急所すなわち「ボトルネック」はこの部分にあります。患者やそのクラスターの所在を把握し、二次感染を防ぎ、感染者数の増大に歯止めをかける中心となる業務が、非効率な手作業に依らざるを得ないため、十分進んでいないのです。この問題に対して、いくつかの地方自治体では、効率化のための策を講じ保健所の負担軽減を図りましたが、全国的な負担軽減策はほとんど存在しません。その結果、感染者やその濃厚接触者を効率的に検査の網に掛け、新たな感染を抑制することが難しくなっています。患者の数は増え続ければ、多大な経済的被害を伴う全面的な行動制限「ロックダウン」を避けることは難しくなります。

この「感染対策のボトルネック」を解消する対策には、さまざまな知識が求められます。まず、公衆衛生行政の実務に対する理解は不可欠です。感染者との連絡の仕方、検査の手配、検体の採取、結果の伝達、接触者を洗い出すための行動履歴の聴取。こうした知識を踏まえずに設計したシステムは、決して効果的に機能しません。また、こうして収集する情報をいかに適切に保存し、効率的に処理するか、情報技術に関する知識も欠かせません。人の移動や接触に関する情報は、誰とどこでどのように会ったのかという複雑なもので、効率的な処理を実現するには技術革新が求められます。さらに、行政が扱う個人情報という点で、個人情報保護法などの法律や情報セキュリティに関する知識も不可欠です。

今まで試みられてきた「対策」が効果に乏しかったのは、このように様々な問題が複雑に絡まるボトルネックを解消するために求められる多角的な知識を十分に反映できていなかったことが原因の一つと考えられます。

プロジェクトの提案

感染症危機管理における位置情報活用に向けた基盤的技術の開発 提案手法
我々のプロジェクトでは、この新型コロナウイルス対策のボトルネックの解消に向けて、公衆衛生行政におけるさまざまな知識や技術の集大成として、「感染症患者の情報管理を効率化する技術」の研究開発に取り組んできました。この患者情報管理の効率化により、感染者の効率的な把握、行政内部における業務の負担軽減、住民へのリスク広報の改善を実現し、感染症に対する社会の抵抗力を大幅に向上させることが期待されます。

① 積極的疫学調査支援

感染症の対応にあたる保健所では、今まで、患者や接触者からの情報収集を保健師による「聞き取り」により行ってきました。こうして患者から聞き取った情報をまずは手書きでメモし、Excelファイルの定型書式等に整理したうえで、その後の対応を要する接触者のリストを作成し、さらに電話にて対応を依頼していくことになります。本プロジェクトでは、この手作業でなされていた患者の移動や接触情報の聴取、接触者リストの生成や管理を自動化していくための情報技術を研究開発します。これにより、指数的に増える患者数に対して僅かな増員ですら手間なしには実現できなかった保健所の対応力が、大幅に向上することが期待されます。

② 接触情報の標準化と自動処理の実現

保健師が収集する患者や接触者の情報には、氏名、年齢、住所といった単純な情報の他に、いつ、どこにいき、何をしたかという、「感染のリスク」に直結する質的な情報が多量に含まれます。今までの情報技術では、データベースの構築を通じて、氏名や年齢などの定型情報を管理することに主眼が置かれてきました。本プロジェクトでは、「いつ、どこにいき、何をしたか」といった非定型的な情報を効率的に記述し、また、自動計算を可能とする技術「PLOD: Patient Location Ontologiy-based Data」を研究開発します。これにより、空間疫学的解析やプレスリリースの作成のための匿名化処理、実用的なオープンデータ化など、従来手作業以外では実現しえなかった各種作業の効率化が期待されます。

③ 感染リスクの効率的な広報

最後に、PLOD技術で改良した患者発生プレスリリース情報を基盤として、住民向けの感染・接触リスク通知アプリの精度を向上し、保健所への連絡を促す技術の開発を行います。 このように書くと、COCOAがあるではないかと思われる方がおられるかも知れません。COCOAとは、国が提供している、感染者と接触したことを通知してくれる携帯アプリです。しかし、COCOAは、そもそも「端末間の一定時間以上の接触」を検知するよう設計されているものの、ドアノブや短い会話を通じた感染や空調によって運ばれる微細な唾液の飛沫(エアロゾル)など、新型コロナ感染症の重要な感染経路を通じた感染を検知することができません。また、保健所側の業務と合致していない点もあり、有効に機能しているとはいえない状況にあります。 我々のグループでは、こうした携帯電話を用いた感染リスクの広報手法について、 新型コロナウイルスによるパンデミックの発生する数年前より基礎研究を開始し、世界初の研究成果を挙げていました。具体的な実現に至る前に新型ウイルスのパンデミックが発生してしまいましたが、今回の研究プロジェクトを通じて、研究成果の社会への還元を目指し活動を進めます。

欧米諸国においては、患者数や死者数が多く、公衆衛生行政が個々の患者情報を効率的に管理する技術へのニーズが乏しい状況にあります。一方、アジア諸国においては、携帯のGPS情報や電子決済の利用情報など、患者と接触者の効率的な追跡のために住民のプライバシーをある程度犠牲にすることが政治的合意を得ており、個々の患者や接触者の同意に基づいた感染リスクの管理手法のニーズが乏しい状況にあります。結果として、今回我々が研究開発を進めている、個々の患者の移動や接触に関する情報を効率的に管理するような技術は、世界的にまだ確立されていません。この技術は、結核や麻疹(はしか)など新型コロナウイルス感染症とは異なった特性を有する感染症に対しても適用可能なものであり、わが国が「コロナ後」の世界における感染症対策をリードしていく可能性を拓く研究開発です。